2009年10月24日

土方歳三 最期の地

函館、五稜郭は、幕末から明治新政府へと
大きく日本が変わっていた時期の
歴史的建造物である。

新撰組は、京都から江戸へ、
さらに北上し会津へ、

新政府軍との戦闘を続けながら
ついには、蝦夷の函館にたどり着く。




慶応4年(1868年)10月20日、蝦夷地鷲の木に上陸後、
土方歳三は間道軍総督となり五稜郭へ向かった。

新選組は大鳥圭介総督の下本道を進んだが、
歳三には島田魁ら数名の新選組隊士が常に従っていたと言う。

箱館・五稜郭を占領後、歳三は額兵隊などを率いて
松前へ進軍し松前城(福山城)を陥落させ、
残兵を江差まで追撃した。

この時、榎本武揚は土方軍を海から援護するため、
開陽丸で江差沖へ向かったが、暴風雨に遭い座礁。

江差に上陸して開陽丸の沈没していく姿を
見守っていた榎本と歳三は、そばにあった松を叩いて嘆き合ったと言われ、
今でもその「嘆きの松」が残っている。


明治2年(1869年)5月11日(旧暦)、新政府軍の箱館総攻撃が開始され、
新選組隊士島田魁らが守備していた弁天台場が新政府軍に
包囲され孤立したため、歳三は籠城戦を嫌って僅かな兵を率いて出陣。


新政府軍艦朝陽が味方の軍艦によって撃沈されたのを見て

「この機会を逃すな!」

と大喝、箱館一本木関門にて陸軍奉行添役大野右仲に
命じて敗走してくる仲間を率いて進軍させ、

「我この柵にありて、退く者を斬る!」

と発した。

歳三は一本木関門を守備し、七重浜より攻め来る新政府軍に応戦、
馬上で指揮を執った。

その乱戦の中、銃弾に腹部を貫かれて落馬、
側近が急いで駆けつけた時にはもう絶命していたと言う。

敵の銃弾ないしは流れ弾に当たったとするのが通説だが、
降伏に頑強に反対する土方を除くために
味方の手によって暗殺されたとする説もある。

歴史に疎いので、、
ウィキペディアより、引用させて頂きました。





アウトバック・オーストラリア ニュージーランド

0 件のコメント: